私の「親家片」体験

家を残したくて貸家にしたが、気苦労が絶えず…… 第2話 ~時の流れとともに、実家への思いにも変化が~

貸家にして15年、次第に貸家にすることが心の負担になっていった 
小田島恵子さん 東京都・56歳

 

父の新盆を迎え、小田島さんきょうだいは、話し合いで実家を貸し出すことに決めた

300㎡の敷地に、120㎡ほどの築20年の鉄筋2階建ての家屋、これが小田島さんの実家だ。唐津駅から徒歩で15分程度の距離で、いわゆる地方の閑静な住宅地にあった。

「いくらで貸せるものなのか、まったくわかりませんでしたので、不動産会社には相場で貸せればいいが、多少安くてもかまわないと言いました。兄も私も固定資産税分が出ればいいくらいに思っていましたから」

 

家賃は月額8万円となった。都内に住む小田島さんにとっては驚くほど安い金額だったが、これが地方の水準なんだと改めて地方と東京の差を感じたという。

その後、不動産会社からは3か月音沙汰なし。4か月目に社員寮として借りたいという会社があると連絡があった。精密部品を作る地元のメーカーで、この会社は5年間借りて出ていった。社員寮として使われた小田島さんの実家には常時3人の社員が住んでいた。

 

次は30代のサラリーマン一家が入居、この家族は6年ほど住んだ。次に入ったのもやはり30代のサラリーマン一家、この一家もまた3年ほど住んで転居していった。

 

自身の生活環境が変わったことで、故郷の家への思いにも変化があらわれた

 

結局、借主のいない空き家の期間を含め15年、実家は貸家として使われた。その間小田島さんの生活も変わった。

 

「父の死の2年後、私も結婚しました。そうするとだんだん故郷から遠ざかるようになりました。両親のお墓は父の実家のある福岡市にありました。唐津は福岡市に近いので、お墓参りのあとには、実家の近くに住んでいる父の弟、叔父さんの家に立ち寄って実家の様子を見ていました。でも次第にその回数が減っていきました」

 

1年に2回戻っていたのが、1回になり、やがて2年に1回とだんだんと帰郷の回数は減っていく。冒頭の話にあった庭の木が切られたのは、そんなころのことだったという。

亡き両親との思い出のつまった家を大事に使ってくれないことに憤りを覚え、ときおり叔父から聞く何気ない入居者の評判にも心が騒ぐ。

 

「家を貸したことで、故郷で自分たちの評判が悪くなるのではたまらない」。そんな思いが年を経るにつれ募り、次第に実家を貸し続けることに心の負担が大きくなっていった。

 

「不動産会社には、気がつくたびにきちんと管理してくれるよう何度も申し入れたのですが、あまり熱心には対応してくれませんでした。不動産会社にとっては、貸主である私たちも借主である入居者も同じ客ですし、家賃を滞納するような人はいなかったので、とくに目くじら立てるようなことではなかったのかもしれません」

それに、なんといっても小田島さんたちは、遠い東京に住んでいる。

「遠くに住んでいる貸主よりも、不動産会社としては、やはり地元にいる借主の人のほうを優先するのかなと思いました」

 

第3話に続きます