私の「親家片」体験

1坪3000円の「田舎の古民家」。知人の紹介で売却が実現 第1話 ~誰も住まなくなった1000坪の土地を売却~

「平屋の古民家だったから買うことにした」お隣の紹介で空き家になった築100年の家を売却! 岸本靖夫さん 岡山県・66歳

 

「売れるとしても二束三文だと覚悟していましたから、300万円というのは十分な額だと思いました。そりゃあ高く売れるに越したことはないですけど、まあ自分に住む意思はないし、使ってくれる人がいるならそれがいいのかなと」

 

岸本さんは当時をこう振り返る。岸本さんの実家の売却が決まったのは、2010年のこと。その前年に売却話を持ちかけてきたのは、実家の隣の造園業の社長だった。隣といっても数百mは離れているが、岸本さんと造園業の社長は、以前からよく知った仲だ。

「田舎暮らしを望んでいる人がいるんだが、あんたとこの実家を売ったらどうか」と、電話をかけてきてくれたのだ。

 

「希望している方はこの地域の出身で、東京に出て商社に勤め、長く海外勤務をしていたそうです。その方のご次男が病気療養中で、彼の希望もあって田舎暮らしをしたいということでした」

岸本さんの実家は、岡山県中部、春と秋には雲海が見られることで有名な地域だ。現在、岡山市内に住む岸本さんが、高校時代までを過ごした家であり、周りには急峻な斜面を利用した棚田が広がっていて、晴れた日には瀬戸内海まで見渡せるという。

国道から山道を車で上ること8分の距離だが、それは道が舗装されてからのこと。かつてはでこぼこ道で、雨が降ると大変だったそうだ。

戦後間もない1947年に生まれた岸本さんは、そんな道を4㎞離れた小学校まで通った。中学生になると学校までは片道3時間の距離。毎日、徒歩で往復したという。

 

岸本さんの実家は、祖父が独立するときに本家の援助をもらって建てたもの。分家筋だった祖父は、本家から200m離れた場所に、100坪ほどの敷地に40坪ほどの家を建てた。1910年代のことである。

 

土間、納屋、家畜小屋……4Kの平屋という「田舎の古民家」

 

岸本さんの実家は、今ふうにいえば、母屋は4Kの平屋で、それに離れがあるというもの。母屋の玄関を入るとすぐに土間があり、左手が居住スペース、右手が納屋や家畜小屋などの作業スペースである。

 

居住スペースは、6畳二間に、8畳と4畳が各一間。6畳のひとつは食事スペース、もうひとつにはタンスなどが置かれていた。8畳がいわばリビングルームで、4畳との間にある仕切りの障子をはずせば12畳の広間となる。母屋のほかに6畳と8畳の離れもあり、岸本さんたちが訪れると離れで眠るのが常だった。

 

岸本さん夫妻は、この実家で結婚式を挙げた。親類縁者たちも岡山市内から駆けつけるなど、列席者はおよそ30人。その宴の最中に、ある出来事が起こる。母屋の8畳間の床が抜けたのである。いまでも親戚が集まると必ず誰かがこの話題にふれ、笑い話になるという。

台所の奥には家畜小屋があった。岸本さんは、昔を懐かしんで言う。

「昔は牛に引かせて田んぼを耕していました。私が小学生ぐらいのころまでは牛がいましたね。農耕牛だから乳は出ない。でも、ヤギを飼っていたからヤギの乳を飲んでいた。当時としてはわりと体が大きかった(身長177㎝)のはそのせいかな。風呂は最初は外にあって、家の中にできたのは牛を飼わなくなってから。家畜小屋のあとのスペースにつくった。風呂焚きがいつもの自分の仕事でしたね。もちろん、薪割りもやりました」

 

鶏も庭で飼っていた。庭には柿とイチジク、アケビの木があり、夏や秋になると、それらの実が鈴なりになった。少し山を歩けば山菜も採り放題だった。山から切り出したコナラの木に菌種を打ち込み、シイタケの原木栽培も行っていた。

岸本さんは、再び懐かしそうに当時を振り返る。

「当時は山にも人の手がたくさん入っていたから、マツタケもよく採れた。一回山に入っただけで、持ちきれないほど採れたものです」

つい最近まで水道はなく、井戸の水を引いていた。実家から200m離れた山の中には炭焼き小屋もあった。

「どの家でもそうですが、炭焼きもやっていた。昔はほとんど自給自足でやっていけるぐらい、なんでもそろっていたんです」

 

岸本さんが実家の売却を考えるようになったのは、父親が亡くなってからひとり暮らしを続けていた母親が、特別養護老人ホームに入居し、誰も住む人がいなくなったからだった。

 

第2話に続きます