私の「親家片」体験

「母が30年間暮らした一軒家から 35㎡の1LDKに」 第1話 ~体調を崩した母の姿を見て親家片を決意~

判断力のある母と娘が協力して、一軒家を片づけたケース
山口福子さん(仮名) 東京都・54歳

 

 山口さんが親の家の片づけに直面したのは昨年のこと。

「それまで元気だった母が体調をくずし、突然、ひとり暮らしが難しくなってしまったんです。漠然と、いつかそういう日はくるだろうとは思っていましたが、覚悟は全くできていませんでした」

 

山口さんは子ども時代、会社員の父親の転勤に伴って横浜、金沢、長野などで暮らした。

18歳のときに大学進学のために上京。大学卒業後、東京で就職し、その後、職場で出会った東京出身の夫と結婚した。

「父は定年を機に家を建て、福岡に移り住みました。私は一度も住んだことはありませんが、福岡はもともと両親の出身地。両親は人生の後半戦、なじみのある地元で暮らしたいと思ったのでしょう。私はひとり娘なので、東京のわが家の近くに住んでほしいという思いもありましたが、両親の希望を尊重することにしました。31年前のことです」

 

父親が亡くなったあとも、明るく気丈な母親だったが……

一方、山口さんは一男一女を育てながら、仕事を続けてきた。

「夫の実家の隣に家を構え、平日の夕食作りは義母にお願いしました。仕事で遅くなるときも、義母が子どもたちの面倒を見てくれました。正社員ですので、まとめて休みをとれるのは夏休みと正月休みだけ。福岡は遠いので、孫の顔を見せに実家に帰れるのはそのときだけでした。子どもが大きくなると、私ひとりで帰ることも多くなりました。ひとり娘を手放して寂しいこともあったでしょうが、両親とも健康で、私に負担をかけるような言葉はひとことだって言わなかった。ありがたいなぁと思っていました」

 

母・朝子さんは料理上手で、編み物と庭仕事が趣味。定年後、父・康平さんは、読書と旅行を楽しむようになった。

「有田で開かれる陶器市には毎年のように二人で通っていました。そこで買い集めた食器が、キッチンの食器棚2つと、リビングのサイドボードにぎっしり。お正月には母はごちそうをテーブルに乗りきらないほどたくさん作り、新しい食器に盛りつけて私に披露してくれたんです」

朝夕、夫婦二人で、愛犬シマの散歩もしていたという。けれども、6年前、康平さんが病気で亡くなり、朝子さんはひとり暮らしに。

「父が77歳のときでした。残された母に対して心配が全くなかったと言えばうそになりますが、ひとりになっても泣き言も言わず、気丈にがんばってくれました。毎日、犬の散歩をし、カラオケクラブにも入り、いつ電話しても明るい声を出してくれて……わが母ながらえらいなぁと思っていたんです」

 

ところが突然、朝子さんが体調をくずした。康平さんが亡くなって4年半がたっていた。

 

体調がすぐれない母の姿を目の当たりにして、山口さんの気持ちが固まった

「いつものように電話をして“体調はどう?”と聞いたら、“元気よ。心配しないで”と必ず言ってくれる母が、“頭が痛い”と訴えたんです。声にも張りがなくて……でも風邪だろうと思いました」

 

その日は「暖かくして無理しないでね」と電話を切った。翌日、気になって電話をした。すると朝子さんは「昨晩、頭が痛くて救急車を呼んでもらった」と言った。

「ドキッとしました。あの気丈な母が自ら救急車を呼ぶなんて、よっぽどのことですから。母に“そっちに行こうか?”と言うと、普段なら私に負担をかけまいと“大丈夫よ”と言う母が、素直に“うん”と返事をしたんです」

山口さんは会社を早退し、その日のうちに福岡に飛んだ。

「自宅に着いたのは深夜でした。母の様子を見て、ほっと胸をなで下ろしました。顔色も悪くなく、いつもどおりの母がそこにいたからです」

食事の支度をしたり、家事を手伝ったりして2日間を過ごした。

そして3日目、きょうは東京に帰るという日。朝子さんは再び、山口さんに不調を訴えた。熱は37度足らずなのに、悪寒がするという。

「顔色は真っ青、体が小刻みに震えだしたときにはゾッとしました。何か悪い病気なのかもしれないと、あわてて救急車を呼びました」

病院では全身をくまなく検査してもらった。MRIまで撮った。結果は全く異常なし。

悪寒の原因がわからない。

 

担当医からは老人性うつからくる転換性障害ではないかと言われた。

「このとき、もう母をひとりで福岡には置いておけないと思いました。私はひとりっ子なので、いつも頭の片隅にいずれは自分が親の面倒を見なければならないという思いがありました。ついに、母の面倒を見る日がきたと思いました」

第2話に続きます

 


2014/07/17 | キーワド: , , | 記事: