私の「親家片」体験

80代半ばの義母、ひとりですべてを片づけた 第3話(最終話) ~義母に教えられた、人生をしまうこと~

長生きするのもしんどいんよ。
でも生きている限り生きなければいけんけん
宮田恵子さん 東京都・56歳

 

息子夫婦との話し合いの結果、宮田さんの義母はひとりで片づけを始めた。

その数年後、芳夫さんは心筋梗塞で急死する。52歳だった。

「母は92歳でした。ひとり息子を亡くした悲しみに、一度は体調をくずしたほどでした。けれど、親戚の人たちの励ましもあってまた義母は気力をとり戻し、孫娘たちの成長を楽しみにひとり暮らしを続けてくれたんです。火鉢やミシンの処分まで始めたのは、それからです」
祥子さんが亡くなって2年後、家を取り壊し、更地にした。

「更地にする前にもう一度、東京から愛媛の母の家に行きました。入院して3年、亡くなって2年。住む人がいなくなって5年たった家は、がくぜんとするほど傷んでいました。室内はカビくさく、畳はふにゃふにゃ。庭は1年に一度、庭師に頼んで枝を払ってもらっていましたが、そちらも荒れ放題……。

でも、ひとり居間に座ってボーッとしていたら、義母が住んでいた頃の家の様子がふっとまぶたの奥に浮かびました。足腰が弱ってからも、朝5時に起きて膝をつきながら掃除機をかけていた義母、すっきり剪定された庭を見つめながらほっこりと笑う義母のやさしい横顔、アイスクリームが好きで、薬を飲み終えるたびに“お口直し”と言っておいしそうに食べていたこと……。なつかしくて寂しくて、涙がこぼれました。でも同時に人生をしまうというのは、こういうことなのだと義母に教えられたような気がしました」

 

最後まで、ていねいに生きた義母。亡くなってその強さが身にしみた

夫に仕え、息子を育て、料理が得意だった祥子さんは、一度も外で働いたことがない。息子の芳夫さんにも、恵子さんにも寄りかかりはしなかった。

 

「ひとりで大変なことも多かったと思いますが、どんなときも泣き言を言わず、ほがらかでした。自分が死んだあと、家をどうするかということに関しても、80代半ばで向き合い、家を処分するという、義母にとってはつらい選択も、淡々と受け入れてくれました。

90代で息子を亡くし、大きな希望をもぎとられてからも、ひとり暮らしをきれいに続けました。あの頃、夫が亡くなって子育てと仕事でいっぱいいっぱいだった私は、高齢の義母のことを思いやったり、顧みたりする余裕はありませんでした。私に求めたいことや言いたいこともいっぱいあったと思います。でも、義母は黙って受け入れてくれた……。義母の生きる力のすごさに気づかされたのは、義母が亡くなってからです。もっと頻繁に電話をしてやさしい言葉をかけていたらよかったなどと思うことはたくさんありますが、義母はすべてをわかってくれていたような気もします」

 

「恵子さん、長生きするのもしんどいんよ。早く死んで芳夫のそばにいきたいと思うけれど、なかなか思うようにはいかんけん。しんどくても、生きている限り、生きないといけんけん」
それが晩年の祥子さんの口癖だったという。

「義母は、生きる覚悟、死ぬ覚悟、そして何事も避けることなくきちんと向かい合う強さももっていた。家の片づけや人づきあいなども含め、最後までていねいに暮らしていた。あっぱれだと思います」

 

更地にする前に、家を一巡したけれど、もう持ち出すものはなかった。

「仏壇のことをお寺に相談すると、住職が“仏壇には魂を入れていないので、扉を閉めて、まわりに塩をまけば、家と一緒に処分してかまわない”とおっしゃってくださったので、そのようにしました。更地にして半年後に、土地の売却が決まりました。義母のように私が家を片づけられる自信はありませんが、私も50代後半。少しずつ自分にとって何が必要で何が不用なのかを考えて生きていかなくてはと思います。自分が死んだあとにまで思いをはせて、家の片づけを行った義母は、明治生まれで生涯専業主婦として暮らしましたが、本当の意味で自立した女性だったといえるのではないかと思います」

 

(完)